その頃娘はイヤイヤ期の真っ只中で、一日中泣きわめいていることも多かった。
どんな手を使っても泣き止まず、その声は泣き声というよりは、金切り声だった。
ある日、その日も泣き止まない娘に、好物の白身魚のフライを作った。
スープも、かぼちゃからすりつぶして作った手作りだ。
以前機嫌が悪い時に食べて泣き止んでくれたご飯を、彼女は再現したのだ。
だけどその日は、そう簡単にいかなかった。
娘はトレイを目の前に置いた瞬間に払いのけ、作ったものが全部床に散らばった。
無心で床に散らばったごはんを方付けていると、玄関のチャイムがなった。
覗き穴を見ると、隣に住んでいる年配の女性だった。
「昨日から、ずっとすごい声で泣いてるから。大丈夫かなと思って…」
ドアを開けると、その人は申し訳なさそうにそう言った。
心配して気遣っているというような顔に見えない。
この人は、虐待を疑っている。と、直感した。
バカなことを言わないでくれ。
私がどれだけこの子のために尽くしていると思ってるんだ。
怒りで声が震えた。
「ごめんなさい。でも、2歳で、イヤイヤ期なんです。ごめんなさい」
彼女はそう言ってドアを閉めた。
娘は変わらずに泣きわめいている。目から涙は、出ていない。
泣いているというか、暴れている。
もうなにをする気もおきなくなって、床に座り込んでいた。
娘がやってきて、おもちゃを投げつけてきながら金切り声をあげる。
抱きしめようとすると、その泣き声が叫び声に変わった。
その時、夫が帰ってきた。
会社の送迎会の帰りだからか、お酒で顔が赤い。
「なんでこんなに泣いてるのに放ったらかしてるの?」
「なんで洗い物が終わっていないの?」
「俺のシャツ、洗濯してくれた?」
ろれつの回らない口調で一通りそんなことを言ったあと、
夫は娘のところに近寄った。
「こんなまま、最悪でしゅね」
娘はさっきまでが嘘だったかのように泣き止んで、すんなりと夫に抱きしめられた。
「ずっと泣き止まなかったんだよ。ご飯もひっくり返されるし。隣の人、虐待じゃないかって疑ってると思う」
震える声で言う彼女に夫は
「いや、抱きしめたら泣き止むじゃん。それもできないのって虐待でしょ」
と、言った。
「それから」
何も言葉を返す気にならない彼女に、夫はこう続ける。
「お前、この前新しいワンピース買ったでしょう。あんな派手な服、母親のくせにどこに着て行くの?」
そのワンピースは、彼女が独身時代に貯金していたお金をほんの少しだけ使って、
久しぶりに、自分へのご褒美のために買ったものだった。
「今度、高校時代の友達との集まりがあるの。この子が生まれてから一度も行けてないから、あの服着て、行きたいの。最近服も買ってなかったし、着て行くものがないから、新しいものを買ったの」
「その間子ども、どうすんの?」
「見ててくれないかな、と思ってる。ごめんね、頼もうと思ってたんだけど、まだ先だったから。」
「は?俺オムツも変えられないし、無理だよ。」
「そっか。じゃあ、お母さんに頼むよ。車で送って行って、私お酒飲まずにひろって帰るし。」
「娘ほったらかして飲みに行くとか、それでも母親かよ」
彼女はその時のことを、こう話した。
母親って、なんだろうと思った。
母親になったら、全ての自分を殺さなくてはいけないの?
ちょっと良いバーでモヒートの飲み比べをするのが好きな私を。
友達の夫の愚痴を聞くのが好きな私を。
可愛いワンピースを着て出かける私を。
全部殺して、「母親」にならないといけないのだろうか。
両立することはできないのか。
ほんの少し、ほんのたまに、前の自分に戻って遊ぶのも許されないのだろうか。
「もう限界なの。一回だけで良い。子ども抜きで友達に会って、2時間だけで良いから、
ちょっと気を抜きたいだけなの。《いつもの店》に行って、話したいだけなの。
このままじゃ頭がおかしくなる… お願いします」
泣きそうになりながら話す彼女を見て大きなため息をついた夫は、
「そういうの、この子が大きく、せめて高校卒業するまで我慢しろよ。」と言った。
「ねえ、その頃には私、44歳だよ」
yuzuka
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