この文章が、誰かの心を軽くすることを願い、ずっと綴りたかった気持ちを、言葉にしてみる。
もがけばもがくほど、現実が首根っこに食い込んでくる。見渡す限りに灰をかぶった現実は、どう見たって息を吹き返しそうにない。
途方に暮れるだとか、どうにかあがいてみるだとか、そういう一通りの「抵抗」は、もうとっくにやり終わった。
止まった灰色の世界の中を、カラフルな人たちが、ケラケラと笑いながら通り過ぎていくのが見える。
おい、どういうことだよ。
「そっち側」に行きたいんだけど。
気づけば私の体は「現実」とか、そういうどうしようもないものでがんじがらめになっていた。
困ったな、いつのまにか身動き出来ないぜ。
いつからこうなったんだ。私は自由を求めてここに来たはずだろう。
苦笑いする。
「死にたい」
その言葉が頭をよぎるようになって、随分時間がたった。言わないようにしていたし、考えないようにしていたけれど、それはなんとなく「非難されそう」だったからで、やっぱりどう考えたって私は、心の底から死にたかった。
ロープに首をかけようとすると、デフォルトと言いたくなるような言葉が、どこからともなく降ってくる。
それは「太文字のゴシック体」だとか「短くアレンジしたセーラー服」みたいにありふれている「特別」をデコレーションした定型文。
「生きたくても生きられない人がいるんだよ」
「君が死んだら周りが悲しむよ」
下げた眉にうるうるした瞳が目に浮かぶ。
たしかにそうだ。ごもっともだ。
私の命を羨ましく思う人もいるだろうし、死んだ後に思うところがある人もいるだろう。
人を傷つけるかもしれない。仕事先にも迷惑をかけるかもなあ。
でもさ、でもな、でもよう、
この場に及んでもなお、私は人に同情しなければならないのだろうか。
こんなに疲れて、辛くて、涙も枯れて。
それでも尚、「生きたかった人」の代わりに生きていくことを決めたり、私が死んで困る人のために、命を延長しなくてはならないのだろうか。
勘弁してくれよ。
勝手に産み落とされて、勝手にルールを押し付けられて。それでいて、途中で抜けることもできないなんて、「人生」ってのはどうかしてる。
「生まれたことに感謝しろ」だなんて、「初期装備」が良かったヤツらの戯言さ。良いよなあ、最初っから防弾チョッキにマシンガンが装備されてりゃあ、無敵だよ、そりゃあ無敵さ。
たまたま「裸」に、刃がかけたナイフだけを握らされて放り出された私は、今更「不公平」について解く気は無い。
同じような装備でも「生きること」を選ぶ奴はいるし、それで幸せを手にする場合もあるだろう。
でもさ、本当はそんなことも、もうどうだって良いんだ。
とにかく、勝手に生まれさせられたことに免じて、「死に方」とか「死ぬ時」くらい、自分で選ばせてくれ。それでチャラってことにしよう。
「死をデザインする」
私はずっと、死ぬ時は「自殺」にしようと決めている。
人の死を間近で見てきた。
水分が抜け、脳みそがほとんど機能しなくなり、男でも女でもなくなったその「生き物」が、ベッドの中で動かなくなっていく。干からびていく。
「医療」ってものが進化して、よっぽどのことがないとフェイドアウトできないこの世界で、「死にたくても死ねない」「殺してあげたくても殺せない」その不条理を、痛いほど目にしてきた。
「生きろ」と言われる。辛いことも何もかも押し込めて努力して「生きたかった誰か」のために生きろと言われる。
「生きる」ことこそが正義で、全てで、大切で、「死ぬ」なんてのは100%愚かだ。確実に間違っている。
そう教えこまれて、
「生きる」ことを強要される。
でも、残念ながら行き着く先は同じだ。
私達は必ず死ぬ。灰になる。
一生懸命生きたとして、いずれは体が動かなくなって。
大事な人の顔がわからない中でタンの吸引だけを日課に、「肺炎」になることを待つような最後、私は嫌だった。
それで良い人はいる、それが幸せだという人もいる。
だけど私は、「長生き」が美学だなんて、到底思えない。
だから、決めた。
そういう「死」を目に焼き付けながら、決めた。
私は絶対に自分で死ぬ。
自分が好きな時に、好きな方法で、好きな場所で。飛びっきりオシャレに死んでみせる。
「自殺」を考えている人に、私は敢えて言いたい。
死んだって良いんじゃない?
だって自分の人生だもの。
そのあと苦しむ誰かのこととか、仕事の事とか、そういうの、どうだって良い。とっぱらってしまえば良い。
首を吊れば、あなたの人生は幕を引く。
それが本当に「最善」だと思うのなら、今の状況なんかより、この先の未来なんかより「遥かに良い」と思うのなら、死ぬことを悪だとは思わない。
宗教とか、常識とか、そういうの全部とっぱらって、「良いじゃん、死んで」って。
私はそう言いたい。逃げたいのなら、逃げるしかないのなら、自分の命だもの。
「生きる権利」と同じくらい「死ぬ権利」はあるし、許されるべきだって思うから。
だけど、「死ぬ」というのは、当然後悔すら出来なくて、取り消しもできなくて、最初で最後の「強制終了ボタン」だ。
勘違いするな。リセットじゃない。
強制終了して、画面をハンマーでぶっ壊すのと同じ。もう二度と、「世界」には戻れない。
あなたが死ぬことを考えるのなら、
最後に全てをとっぱらって、自分だけのために考えてほしい。
今あなたを悩ませてる何かは、死ななければ解決しないことなのか。
もしかして、「自分のためだけに生きる」ことを選択したら、現実世界の中で、もっと幸せになれるんじゃないかって、突き詰めて突き詰めて、じっくり考えてほしい。自分だけのために考えてほしい。今死ぬのが、自分にとって「ベストアンサー」なのか。
考えに考えてみて、それでも「自分のために」死ぬことが一番良いって笑顔で言えるのなら、私はその選択を肯定する。
「どうせ死ぬ」って、マイナスな言葉じゃない。「死んで良いじゃん」って、投げやりな言葉じゃない。
最後には消えてなくなるということを意識する。
どうしようもなくなったら、自分で死ぬことを、自分が許してあげようと決意する。
「死ぬ」ことを選択肢に入れた時、人は今よりずっと、生きやすくなる。選択肢が広がる。
私の大好きな「山田孝之さん」は、常に「死ぬかもしれない」と考えているらしい。
突然ミサイルが降ってきたり、扉を出た先で車に轢かれたり、そうやって、「このあと突然命がなくなるかも」って意識して生きているって話してた。
彼はその考えを根本において、自分の起爆剤にしている。
「いつ死ぬかわからないんだから、今やりたいことをする」
彼の考えは私とは違うけれど、
「死」をお守りにする。そこだけは同じだ。
いつか死ぬぞって奮い立たせるのも、
いつでも死ねるよって、自分を許してあげるのも、とても違うようで、とても似ている。
人は必ず死ぬ。
死ぬことを選べる。
いつ死んだって良いんだ。
そうやって自分を許しながら、
私は今日も、まだ生きている。
死ぬことを思い出した時、
死ぬことを許した時、
人は今よりずっと、強くなれる。
「自分のための」選択を。
そうすればもっと、「世界」は明るくなる。
yuzuka
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