少し前のことだった。ツイッターに、一通のDMが届いた。
私のツイッターは恋愛相談を受け付けているということもあって、通知が鳴り止むことは、ほとんどない。
そのDMは、ひっきりなしに送られてくるメッセージの中に、埋もれていたようだった。
「yuzukaさんのこと、書かれてますよ。大丈夫ですか?」
今となっては言い方が変わってしまったけど、所謂「卵アイコン」からのメッセージだった。
IDもテキトウな文字の羅列で、真っさらなタイムラインには、なにも呟かれていない。
その匿名アカウントから、某掲示板のURLが送られてきたのだ。
嫌な予感と胸騒ぎと、きっと誹謗中傷に決まっているという予感から、そのアドレスにアクセスするのを少し躊躇った私だったが、
実はその時、そういう恐怖心よりも、「大丈夫だ」という安心感が勝っていた。もしも何かが書かれていたとしても、それは全て嘘だという確信があったのだ。
なぜそんな自信があったのか。それは、その頃私が「yuzuka」というコンテンツ守るために、様々な決まりを自分に設けて、個人特定ができないように配慮していたからだ。
その当初、yuzukaと私自身(本名)が同一人物だと知る人間は、4人しかいなかった。
仕事で教えなくてはいけなかった人が2名、あとの2名は大切な友人だ。
しかもその4人のうち3人に教える情報には、それぞれにしか知り得ない『フェイク』を混ぜていた。
最寄駅、好きな人の名前、働いている店、好きな食べ物。
4人とも全員、それぞれしか持たない「秘密の回答」を持っていたということになる。
4人ともに、いくつかの項目について、それぞれ各個人しか知り得ない嘘の情報を渡していたのだ。
そしてそのうえで、インスタグラムも、フェイスブックも、Twitterも。
徹底して、プライベートのアカウントは作らなかった。
ラインのアカウントにすら、本名や顔写真は載せない。
最低かもしれない。
それでも私は、「yuzuka」というコンテンツを立ち上げようと決めた3年前から、常にそういうことを考えていた。
今となってはライターとして「yuzuka」を名乗って顔を晒すことも、連絡先を交換することも増えたが、
その当初は、そういった付き合いさえ、一切行わないようにしていたくらいだ。(因みに今も打ち合わせ時は絶対にマスクを外さない)
yuzukaは確かに私自身だ。嘘など1つもついていない。それでもコンテンツとして運営していくためには、イメージを守らなくてはいけない場面が、多々あった。
私自身と同一人物だと公にされることによって、そのイメージが壊されたり、関係者の中で、私以外に傷つく人が出て欲しくなかったのだ。
私にとって情報を渡していた人達は、かなり選別した「信用できる、信用しなくてはならない人たち」だった。
仕事相手になるはずだった人達も、仲の良かった友人も。
なんとなく教えていたわけではない。「この人達には、知っておいてもらわなくてはいけない、知っておいてほしい」と思った相手だったのだ。
さて。もう既に先は見えただろうか。
送られてきたURLには、その4人に渡した情報のうち、3人に渡した情報が書き込まれていた。
しかも、ふんだんに嘘と悪意を盛り込み、その情報を面白おかしくデコレーションし、あたかもその「作り話」が本当であるかのように、得意げに書き込まれていたのだ。
頭を大きな石で、ガツンと殴られたような感覚に襲われた。
おそらく、今まで生きてきて、最もショックだったことのひとつのうちに入ると思う。
ただの誹謗中傷ではない。そんなのは気にしない。
ほとんどが私をあまり知らずに書いていると分かる根も葉もないような嘘の内容ではあったが、その中に、これを書いているのは、間違いなくあの人だ。と分かる嘘の書き込みが、散りばめられていたのだ。
「yuzukaはスミレの花が好きだよね」
私が好きな花はチューリップで、「スミレ」の話をしたのはその人しかいない。
そういうレベルの話だ。
その日のことは、今でも忘れていない。
深い絶望と、人間の恐ろしさみたいなものを突きつけられた気がして、「もう誰も信用しない」と塞ぎ込み、布団から出られなくなった。
「誰も信用しない」
yuzukaを立ち上げた時に決意したことが、ここに生きてくるなんて。生きて欲しくなかった。
フェイクなんて教えなければ良かった。誰にでも情報を渡して、誰が書き込んだか分からないようにしたら良かった、とも思った。
私の信用していたあの人が、あの子が。夢を語ったあいつが。どんな顔で、こんな嘘を書き込んでいるの?
考えれば考えるほど怖くて、ショックで。
その当初、私は本気でyuzukaをやめようかと悩んだ。死にたいとも思った。これ以上こんな目にはあいたくないと思ったのだ。
人の怖さなど、知りたくなかった。
だけどそんな時、又吉直樹さんの書いた「火花」を読み返していたら、こんな会話劇が繰り広げられているのを目にした。
嘘を書かれたこと、与えた情報を書き込まれたこと。
悲しみと同時に、ドス黒い怒りが湧いたのは、事実だった。
恐らく相手は、私が誰が書いているか分かっているなんて、夢にも思っていないのだろう。
匿名の中に紛れて、私がこんな風に傷つくこともしらない、想像もついていないのかもしれない。
だからこそ、その怒りに任せて、相手のことを名指しで非難してやろうかという思いもよぎったし、相手に直接連絡して、怒鳴ってやろうかとも思った。
でも、それが正しいとも思えなかった。
じゃあ、仕方ないって、相手を許すのか?と言えば、やっぱり許せなかった。
相手との関係を構築していく中で、何か嫌な思いをさせたからこんなことにと自分を責める気持ちにも、なりきれなかった。
完全に行き場をなくした私の中のそのドロドロとした感情の行き場を示してくれたのが、この「火花」の会話劇だったのだ。
『私を誹謗中傷することが、その人の、その夜、生き延びるための唯一の手段なら、受け入れる』
何か辛いことがあったのかもしれない。
人よりも劣っている私が、不相応な仕事をもらえることが、許せないのかも。
そもそも私のことが嫌いで、憎くて。誰かに同じ気持ちだと言ってもらえないと、心の収まりがつかなかったのかもしれない。
暗い小さな部屋の中で、彼らがそんな気持ちに陥り、そして、そんな気持ちであることにすら気づかず、そうした行為に及んでいることを想像すると、私はようやく、純粋に悲しかった。
その悲しみはドロドロとした、怒りとか憎しみとかどうしようもなさは含まない、純粋で透明な悲しさだった。
私はこの考えに至ることによって、やっと彼らを、少しだけ理解できる気がしたのだ。
誹謗中傷を受けた時、よく言われるのは「無視しろ」という言葉である。
確かにそれが一番正しくて、穏便で、火をつけずに始末する、簡単で楽な方法だ。
ネット上の「誹謗中傷」ってのがどれだけ根も葉もない嘘で構築されているくだらないものか、周りを見ていれば、分かる。
奴らは殺しても殺しても湧いてくる。意味がない。向き合う価値もない。
だけど、それが全てで、最善ってわけではない。
何かを言われた時、痛ければ痛いといえばいいし、辛ければ辛いっていっても良いと思うのだ。
フォロワーが多いから、有名人だから、芸能人だから。
だから、なにをいわれて口を噤め、受け入れろ、傷つくな。
そんなこと、私は思わない。
私たちは「人格」が宿った命なんだから。「感情」を保有した、生き物なんだから。
誹謗中傷する、不特定多数の「誰か」と同じように。
だから痛みも感じるし、怒りを覚える。当然だ。それで良い。弱くもない。
一方で、誹謗中傷する「あなたたち」について、私はもう、怒りを覚えないようにする。
この一件があって、私は「信用」への考え方を、一新した。
私は偽善者でありたいから、これからも誰かを信用する。
だけどそれは、自分のためではなく、相手のために。
時代は代わり、誹謗中傷に対する情報開示の重い扉が、徐々に、誰にでも開ける程度の重さに、変わってきている。
私のことを貶す誰かの犯人探しをする。いつか、そんな日が来ることを考えると、身震いがした。
犯人を突き詰めて、その人が私の目に現れた時、私は一体、どんな感情に襲われるのだろう。
どれほど虚しい気持ちになるのだろう。
ああ、どうかどうか、そんな日は、永遠に来ないと良い。
私の大切な「誰か」が、そこから抜け出す日がくることを願って。
yuzuka
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