私は物心ついたときからディズニー映画が大好きで、
「いつか王子様が」を聞いては、微笑んでいたようなピュアっ子だったので、
少し前まではその質問に、間違いなく、淀みなく、声高らかに「愛」と答えていた。
愛があれば四畳一間の部屋で冷や飯を食べたって幸せだろうし、
反対に愛がなければ、六本木ヒルズに住んでいても不幸だって、本気で思っていた。
愛する人がいない人生で、超高層マンションのビルから眺める冷たいプラモデルのような夜景になんの価値があるだろうか?
ほら、花より団子だって、そんな結末に落ち着いたよね?
だから私は、お金を全て失ったって「愛」を手に入れたかったし、「愛」を守りたいと思っていた。
貧乏でも私を心から愛している人と結婚して、貧しくても幸せな家庭を築きたい、と、夢を見ていたのだ。
だけど20代半ば、私のジェットコースターのような人生の途中で、私はその考えの甘さを痛感することになる。
まず、前提として「愛」は、生まれさえすれば永遠に不変で、手入れのいらないしろものではない。
それを維持するためには、毎日観察し、磨き、補修する必要がある。
人は愛を美化しがちだ。
それは強固で、まっすぐで、なおかつ永遠の命を授かっていると語られる。
しかし私は、愛は簡単に壊れるし、放っておけば消えて行くものだと思っている。
そしてその事実は、とくにそこに「性愛」が絡むと著明だと思うのだ。
そしてその「維持」という面で、「お金」は、必要不可欠なのである。
まず結論を言うと、私は「お金より愛が大切」という答えは変えていない。
だけどそのうえで、お金がないと愛を手にすることも、愛を維持することも難しいという現実を、痛いほどに知ったのである。
想像するのは、簡単だ。だけど想像には、リアリティが欠けている。
そこで数年前、私が夜の仕事をしていて、究極の「貧乏」に陥ったときのノンフィクションを、お話したい。
夕方7時。
家賃を、滞納していた。財布には321円しか入っていなくて、前日のお昼から、何も食べていなかった。
家にはゆで卵がひとつ。犬を飼っていたので、ゆで卵を半分に割って、犬と一緒に食べた。
働きに出ようにも、化粧品が切れていた。お店までの交通費がなかった。身だしなみを整えなければ、電車に乗れなければ、働きに出ることもできない。
途方に暮れていると、オートロックのチャイムが鳴った。昨日も来た男だ。家賃の保証会社の社員だった。
その時契約していた保証会社はちょっとあっちの血が入った会社で、家賃が1日でも遅れると、朝から夜中まで、24時間体制で家の前に張り付いたり、ドアを蹴ったり、大声で叫んだりした。
その日も私の本名を叫びながら、玄関の前で、数十分、座り込んでいた。
怖くて、どうしたらいいかわからなくなって、とにかくいないふりをした。
しばらくして音が止んで、エレベーターが降りて行く音がした。
犬が「クーン」と鳴いた。お腹が空いているのだ。
私の事情に巻き込んでいるという事実に、どうしようもない罪悪感が襲って来る。
私はスエットに履き替えて、外の様子を伺って、コンビニに向かった。300円あれば、犬の缶詰がふたつは買えると思ったのだ。
ビクビクしながらコンビニに行き、缶詰を買った。
そしてまた小走りで、部屋に戻った。多分、数十分しか経っていなかったと思う。
エレベーターで上がって、自分の部屋の鍵を開けようとして、異変に気付いた。
当時の部屋の鍵は上下にふたつ付いていて、私はいつも上の方の鍵しか閉めなかった。
…はずなのに…両方、閉まっている。
怖くなるよりも先に、犬の顔が頭に浮かんだ。
私は震える手で急いでドアを開けて、呆然とした。部屋は、真っ暗だった。
私はいつも犬のために、全ての電気とエアコンをつけっぱなしにして外に出るので、
真っ暗だなんて、ありえなかったのだ。
犬が、今までに聞いたことのないような声を出しながら、私に駆け寄って来て、おしっこをもらした。
電気が、止まっていた。そして、部屋の中の机に、保証会社の社員の名刺が置かれていた。
「連絡がつかないので、警察の方とともに安否確認に入りました」というメモとともに。
嘘だ。私は昨日、普通に電話で受け答えしている。
「家の中にも入れる」という脅しだと、すぐに分かった。
そして運悪く、その一連の騒動の後に、支払いの遅れていた電気が止まったのだ。
全ては自業自得だ。自業自得だけど、怖くて、惨めで、恐ろしかった。
その時の私の精神状態は、「普通」ではなかった。
本物の愛だとか、楽しいことだとか、幸せだとか、そんなことよりもまずは「米」と「電気」が欲しかった。
貧乏は、愛を蝕む。
余裕がなくなり、ギスギスしていると、いくら相手を思っていたって、幸せを感じる取ることすら難しくなっていく。
相手のために何かをする余裕など、生まれないのだ。
生まれたとしても、それは自己犠牲の成れの果てだ。
だから私はやっぱり、愛には「お金」が必要だと思う。
正確に言えば、自分が一人で余裕を持って立っていられるだけの金銭的余裕、精神的余裕を持つもの同士の間にしか、
正しい愛は、生まれないと思う。
お金があれば、自己投資できる。自分を魅力的な人間に近づかせることができる。
お金があれば、相手と質の高い経験を共有することができる。
余裕が生まれ、経験が生まれ、そして、優しさが生まれる。
家賃も払えないほどの極限にいたその当時、いっちょまえに恋愛はしていた。
していたけれど、その恋愛は決して幸せにあふれたものではなく、どちらかがどちらかに依存している、
悲しみを分け合うような、傷口を舐めあうような、そんな悲しい「恋愛」だった。
お金があれば、わかりやすく愛を表現することができる。
花を買って、愛を囁ける。記念日に食事に連れて行くことができる。
美味しい手料理を作れるし、お揃いのマグカップを買うこともできるかもしれない。
もちろんお金を使うことが全てだとは言わないが、表現する手段が多い方が良いに越したことはない。
愛は、自分の力を使って維持しなければならないから、である。
そう、愛は必ずしも永遠ではない。愛は、自分の力で維持しなければならない。
愛はただそこにいて、都合よくあなたを守ってくれる、助けてくれる救世主ではない。(と、少なくとも私は思う)
愛は、「貧乏」を解決してくれる突破口にはなり得ないのだ。
そして「貧乏」は、愛を蝕む。
だから私は、お金を投げ打って愛を優先するべきだという論には、異議を唱えたいし、
素敵な女性がお金持ちと結婚するたびに「どうせ金目当てだろう」という声があがることに嫌気がさしている。
だって、本気で思うのだ。愛には、お金が必要だと。
いや、愛のために、お金は必要だと。
そのために何ができるだろう、と、考えた。
もちろんお金がなくても幸せだと言えるケースはたくさん見て来たし、
私自身、貧乏を感じた時代に一寸の幸せもなかったというわけではない。
だけど、より確かな幸せを掴むためには、やっぱり「お金」にも目を向けるべきだと思うからこそ、
これからの時代、私たちも、自分の足で地に足をつけることこそが、真実の愛を見つける唯一の近道なのかもしれない、と、思った。
だから今は前述の質問に、こう答えたい。
愛のためにお金は必要で、そのお金は愛のために使うべきだ、と。
yuzuka
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