よく、「親を施設に入れるなんて可哀想!自分で介護するのが親孝行!」なんて言葉を聞くのだが、私はこの意見に断固として反対である。
私自身、患者さんへの介護にはなんの苦痛もない。下の世話も、認知症による暴言も、全て愛しい。
これはこの場所で、よく話してきたことである。
この話をすると
「そんな優しい人がいるはずがない!偽善だ!」「赤の他人にそこまでの愛情、かけられるはずがない!」
なんて言葉を浴びせられることがあるのだが、
その言葉は、全然的を得ていない。
何を隠そう私は、他人だから、なんの苦痛もなく介護ができるのだ。
因みに彼の両親の介護は、ばっちこいだ。
同居でもなんでも大歓迎。彼自身が事故にでもあって介護を必要とするようになったら、それも請け負う。
でも、それもこれも、「元はと言えば他人だから」という前提。
これが「肉親」となると、話は別なのである。
自分の親がオムツで排泄し、娘である自分のことも忘れ、認知症で徘徊し、人様に迷惑をかける。
そんな状況になったとき、真っ先に現れるのは「身内としての情けなさ」という感情だ。
いくらそれが「認知症」だと分かっていても、どうしても「両親である」というパーソナルな部分と、切り離すことができない。
「どうしてこんなことが出来なくなってしまったの」「どうして人に迷惑をかけるの?」
肉親の介護というのは、想像以上に、そのようなどうしようもない感情が付きまとう。
それは介護する側だけの問題ではない。
介護される側も、身内にオムツを変えてもらうのと、「プロの他人」にオムツを変えてもらうのとでは、心の持ちようが違うのだ。
「身内」だからこそ、優しくできない。
「身内」だからこそ、割り切れない思いが、そこにある。
看護師をはじめとする現場のプロは、患者さん自身と、全ての事柄を切り離して考える。
「オムツを外して便でシーツを汚す」
という事柄1つとっても、それは「認知症の症状」であり、必要な業務は「シーツ交換」であり、今後の再発防止のために「カンファレンスが必要」という事実のみで構成され、それ以外の感情は、あまり湧き怒らない。
それが身内となると、
「オムツを外して便でシーツを汚す母親」というひとつの大きな悲劇的な出来事となり、家族を襲う。昔の母親と比べて悲観したり、苦しくなったり、怒りがこみ上げる。
現場で働く人たちにとって、その対応は「業務」であり、プライベートは別にあるという点も重要だ。
プライベートで「介護」をするというのは、自分の生活の基盤が著しく崩れる。スイッチの切り替えさえできない。常に「介護と向かい合わせ」という状況は、想像をはるかに超えて、厳しい。
もちろん、全家族がそうだとは思わない。
訪問看護やデイサービスを取り入れながら、自宅での介護をうまく行っている家族も、数多く存在する。
しかし、未だにある「施設に入れることは親を見放すことだ」という考え。「それは他人への押し付けだ」という間違った認識は、取り除いてほしい。
実際問題、介護施設の「足りない」度合いは、近年話題になっている「保育園待機児童問題」と同等、いや、もしかするともっと、深刻さを増している。
簡単に施設に預けることができず、自宅で介護という手段をとっている方も数多く存在するであろう。
「限界を感じるのなら、介護施設に入れると良い!」なんていう言葉は、簡単に言えないような状況があるのは、重々承知である。
それでも「自分が介護することこそが親孝行で、それ以外は親不孝だ」という思い込みに苛まれ、介護のストレスに限界を感じている誰かがいるのなら、身内以外の「プロの手」に頼る手段を見つける勇気を持ってほしい、と、切に願う。
介護者のストレスは、される側にも伝わるものだ。
私は、肉親の介護はしない。
きっとうまくできないと思うからだ。
これはすでに両親も了承済みで、入る施設の目処もつけてある。(まだまだ若いが)
お互いに傷つけあう結果を招くのであれば、施設に入ってもらい、プロの手の中で穏やかな日常を送り、その中で面会日を増やした方が、うんとお互いのためになる。と、思えるのだ。
楽になることは、逃げることではない。
お互いの幸せのために「離れる」というのも、ひとつの方法なのである。
介護疲れによる虐待や殺人、自殺が増えるこの社会で、間違った「正義感」に蝕まれる人が、少しでも減ってほしい。と、思う。
yuzuka
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