「常に女である」ということは、生きているだけでは実現しづらい。
大声で下品に笑おうが、ムダ毛の処理を怠ろうが、息をしていれば「生物学的な女」として生きているのには変わりないはずなのに、世間はそれを許さないらしい。
「女は美しくなければいけない」
誰が決めたわけでもない。神様が人間の脳みそにインプットしたその「当たり前」は、美しくない「女」を、どれだけ苦しめただろうか。
「夢は叶う」と花火をあげるディズニー映画も、トキメキが止まらない少女漫画も。
「ハッピーエンド」に必要な条件は、ヒロインが美しいこと。
ガラスの靴を落としたシンデレラが美しくなければ、彼女は生涯家政婦として閉じ込められていただろうし、美女と野獣が「美男と野獣」だったら…野獣の魔法はきっと解かれていないだろう。
「ブスに人権はない」「ブスに発言権はない」
誰も大声では言わない。でも確かに存在する「ブス」への差別。
「女として生きる」ことを優先しなかった「女」への差別。
私たちは日々行われる「品定め」の中で、「心」を消費していく。
私はその差別を、両方の立場から体感している。
自分より「ブス」が多い職場で、私は何をしても許された。ミスも遅刻も、覚えられない雑務も。男達は笑って、喜んで手助けしてきた。驚くことに、それは男達だけではない。
女の先輩も私をこぞって可愛がり、どんな時も味方でいてくれた。
「私よりもブスな女の子」は、直接「ブス」とは言われなくても、小さなミスを酷く責められていたし、「そんなこともできないのか」と罵られていた。
注文を間違えて食材を無駄にした私に笑いかけながら、レンゲを床に落としただけの彼女には、怒鳴り声を浴びせる。
休憩室ではいつも私が主役になり、何を答えても持て囃された。
これが「女として扱われる」ということかと思った。存在を無視される「私よりもブスな女の子」を横目に、その品定めの残酷さを痛感していた。
狭い世界で「美人」として扱われた私は、最後まで、まるで「価値のある人間」であるかのように大事にされた。
私よりもシフトを入れているあの子より
私よりも仕事の覚えが早いあの子より
私よりも職場に貢献したあの子より、
当たり前のように大事にされた。
容姿で優劣をつけられる。
怖いぞと思った。これは環境次第で立場がひっくり返る可能性があるのだから、恐ろしいことだと思った。
そしてその予感と胸騒ぎは、見事に的中する。
それは美容外科に就職した時に起こる。
「美」を売りにしているその職場に、「私よりブスな女の子」はいなかった。
私はその当時と、真逆の対応を受けることとなる。
みんなが「女」として生きていて、顔には「女」がぬりたくられ、「綺麗」だった。間違いなく「綺麗」だった。
私はその場に放たれて、「容姿カースト」の最下位となる。
今まで武器にしていた、ありとあらゆるものが使えなくなった感覚だった。
私の存在は薄まり、相手にされなくなる。
小さなミスにイライラされ、ため息をつかれた。
自分よりも「可愛い女の子達」のそばにいると、私は限りなく淀んだ空気のような存在となる。
興味を持たれず、存在に気付かれず、発言や行動に意味を持たなかった。
女であれば、絶世の美女でもない限り体験したことがあるであろう、あのなんとも言えない居心地の悪さ。
一方が褒められ、ありとあらゆる質問を受け、人を笑顔にする。
非難されるわけではない。いじめられるわけでもない。
それでも、「いない事にされる」辛さ。
「ブスに興味はない」という空気を、全身に浴びせられるあの感覚。
「美人である」というだけで、全ての言葉に説得力が生まれ、「ブスである」というだけで、全ての言葉の意味は、なくなった。
「ブスのくせに」
その言葉が持つ、恐ろしい差別的な側面から、誰もが目を逸らしている。
生まれた瞬間、いや、生まれる前から決まっている「容姿」で、全てを判断されるのだ。
肌の色だとか、生まれた場所だとか、
そんなのと同じくらい「どうしようもないこと」なのに、容姿だけは、平気で差別対象となる。
不幸な生い立ちや、騙された過去を見ても
「ブスだから仕方ない」と納得され、痴漢やストーカー被害ですら「虚言」を疑われる。
「ブスだから」「ブスなのに」「ブスのくせに」
美人とブスの生涯賃金の格差は、3600万円。
美人とブスの模擬裁判で、多くの美人は「反省」を認められ、ブスは「また繰り返す」と判断された。
ブスは美人よりも日給が5%以上低く、
美人の書いた論文は「説得力がある」と高評価された。
美人なだけで有用な人だと判断され、ブスなだけで「使えないのではないか」と首をかしげられる。
ブスは面接に落ち、美人は最良企業に内定が決まる。
これらは全て、正式な研究で得られた確かなデータだ。
「美人はブスより得をする」
残念だが、残酷だが、これは紛れもない事実。
これは「区別」だろうか。
これは「仕方の無いこと」なのだろうか。
黒人差別は許されないが、ブスの差別は「理解するしかない」ことなのだろうか。
私達は「顔面至上主義」の世の中に、今日も生きている。
品定めされ、バカにされ、時に持て囃されながら、「顔面偏差値」を競い合っている。
「ブスは死んでも笑われる」
だから私は、今日も生きる。生きてやる。
お門違いな「評価」という名の「差別」に負けず、今日も「ブス」を生きていく。
yuzuka
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