考え方

映画「プーと大人になった僕」のレビュー。自分でも異常だと思うくらい涙がでた

どうも、ライターのサマーです。

今回は今話題の、あの映画についてレビューさせていただきます。

 

私は昔から疎外感やなじめなさを感じたり、寂しくなったりしたときや、自分がちっぽけに思えてたまらないようなときにはいつでも、映画と本の世界に逃げ込んできました。

映画や本は私のシェルターで、私はそこではいつも優しく守られていて、知恵や、情緒や心の栄養をたくさん与えてもらっては、その中で成長してきました。

 

とはいえ、脳みそがポンコツなので、映画に関して言えば、監督の過去作品や映画が作られたバックグラウンドなんかを作品の時代背景やストーリーと紐付けて上手にお話しすることはなかなかできないと思います(多少は頑張りますが!)。

つまり、イメージ、意識、感覚、感情の茫漠とした世界からのゆるいレビュー中心になると思いますのであしからず。

 

記念すべき(?)映画連載1回目はこれまで私を助けてくれたたくさんの映画のなかでも、小さく幼い頃から変わらない、私の核たる部分をぎゅっと掴まれるような感覚になった作品、「プーと大人になった僕」です。

はりきってどうぞ!

 

目次

プーさんが動いているだけで泣けてくるのはなぜ

引用元:©2018 Disney Enterprises, Inc.

私は自分のことを相当のあまのじゃくで、皮肉屋で、いい感じに根性のねじ曲がった人間だと思っているんですが、それなのに、もしかするとそれだからこそ、この映画を観ている間中、冒頭から最後まで、じわじわ〜っと、ずっと涙が止まらなかったです……。

これはもうちょっと異常だなと自分でも思うくらい、プーさんたちがスクリーンに出てきた瞬間から涙が出てきてしまって困りました。

 

プーさんたちが動いてお茶会をしている姿を観るだけで、いろんなストーリーを自分の中で補完して、まだかろうじて自分の中に残っている小さな自分を掬いあげられるような感覚になって、とにかく、隣の人に二度見されるくらいの泣きようでございました。

 

心の中にいるそれぞれのプーさんが動きだす

引用元:©2018 Disney Enterprises, Inc.

「クマのプーさん(Winnie-the-Pooh)」という児童文学はA.A.ミルンによって1926年に書かれた物語ですが、着想となったのが、ミルンの息子、クリストファー・ロビン・ミルンとクリストファーが実際に持っていたクマのぬいぐるみだったというのは有名な話ですね。

ところがクリストファー・ロビン・ミルンは「クマのプーさん」が驚くほどのヒット作になったことで、彼自身も有名になってしまい、そのあととても難しくて複雑な人生を歩むことになり、その辛さや困難については本人も折に触れて語っています。

実際のA.A.ミルンとクリストファー・ロビン・ミルンと「クマのプーさん」を巡るストーリーを描いた「グッバイ・クリストファー・ロビン」という映画も(日本では劇場未公開ですが、DVDがリリースされています)、あわせて観るときっとおもしろいでしょう。

 

この映画の中のクリストファーもそうですが、実際のクリストファーはもしかすると物語の彼よりももっと大人になるということの過程と大人として生きることそのものに、もがいて格闘していたのかもしれません。

劇中でクリストファーを演じるユアン・マクレガーだって、ジャンキー(「トレインスポッティング」「T2」)からジェダイ・マスター(「スター・ウォーズ」シリーズ)を経て、離婚、親権問題、養育費問題まで、酸っぱいレモンをたくさん噛みしめて生きてきた大人ですしね。

 

ただ、私としてはこの映画を観るのに、必ずしも物語の背景を考えたり、このカタチのプーが生まれた本当の理由(つまり大人の事情)について思いを馳せたりする必要はないと思います。

自分だけのプーさんの姿をスクリーンに生きているプーさんに投影して、思いっきり子どもの自分の感受性に戻って、ふにゃふにゃの豆腐みたいなセンチメンタリズムにダイヴした中から観たらいいのではないかと思います。

 

私たちはきっと、心の中にそれぞれ一人ずつのプーさんの物語を持っていると思いますから。

 

プーさんが教えてくれる大切なことは、その昔私たちが知っていたこと

この映画の一番のポイントが何かと聞かれたら、それはプーさんが語る言葉につきると思います。

「クマのプーさん」原作の物語でも、プーさんが何気なく語る言葉には格言、金言(アフォリズム)がたくさんあります。禅問答のように、孔子や孟子の教えのように、それらが哲学的で生きるための指針になると、プーさんの言葉にフォーカスした出版物もたくさん出ていますね。

 

この映画の中でも、プーさんはクリストファー・ロビンに向けてぼんやりした顔で当たり前のことのように、とても大切なことを語りかけるんです。

忘れてはいけないな、と思うのは、プーさんがとぼけた顔で繰り出してくるその言葉や考え方って、その昔クリストファー・ロビンがプーさんに教えてあげたことなんですよね。

 

つまり、私たちが子どもの頃には当たり前に知っていたことばかりのはずなんです。

 

大人になって懸命に道を模索しつつ夢中で進むうち、迷子になってしまった私たちが忘れかけていたこと。

それを、私たちがもう一度自分の存在を思い出してくれるのをずっと待っていてくれたプーさんが、今度は私たちに教えてくれているんです。

 

「君に教えてもらったから、僕はずっと知っていたよ」って。

 

自分の中にいる昔から変わらない自分

ここから、ストーリーの本筋には触れませんが劇中のプーさんの言葉を引用します。

一切のネタバレを目にすることなく映画を観たいと思っている方はご注意を!

 

サラリーマンになって、あらゆるシガラミに囚われて身動きが取れなくなってしまったクリストファー・ロビンは、自分が自分であるということにさえ確信が持てなくなってしまっています。

 

プーさんに「君はクリストファー・ロビンでしょ?」と聞かれて、「違う」とまで言い出す始末。

引用元:©2018 Disney Enterprises, Inc.

「待て待て待て」って感じですが、それほどクリストファーは、戦争や理不尽な社会や経済、隙あらば搾取しようとしてくるズルイ大人なんかにボコボコにノックアウトされてしまっているんですね。

そして、自分でも自分がそんなボコボコであることに気がつけないほど重症なんです。

 

プーさんがロンドンにやってきて、何十年ぶりに再会を果たしたときにも、プーさんが自分のことをすぐにクリストファーだとわかったことに驚きます。自分はこんなにも変わってしまったのに……と。

するとプーさんは、蜂蜜でベタベタの手でクリストファーの両目に触ってこう言います。

 

「だってここから見ているのはきみだよ」

 

プーさんが見ているのはシワがよった目じりや少しくたびれてしまった身体なんかではなくて、出会ったときから変わらないはずのクリストファーの本質そのものなんですね。

 

私たちは迷子

引用元:©2018 Disney Enterprises, Inc.

私がこの映画でこんなにも泣けたのは、きっと私もある程度迷子だから。

どの始発点、どの終着点からの迷子なのか、誰からはぐれてしまったのか。そもそもどこを、誰を目指していたのか、それさえもわからなくなってしまって、どっちを向いていいのかわからない。

そんなときに、探している場所、行きつきたい場所、探している誰か、見つけてほしい誰か、そんな大切な場所や人との距離について、シンプルな言葉で教えてくれるのが名作と呼ばれる物語の所以だと思います。

 

この映画にもそんな大切な場所、大切な人との距離についての言葉が出てきました。そのうちのいくつかについて少し考えたいと思います。

つまり、自分と大切な場所、大切な人との距離をどうとらえるかということですね。

 

「どこか」にいくのか、それとも「どこか」を待つのか

ここではないどこかへ行きたいとき、プーさんが持つその「どこか」についてとらえ方は一つではありません。

 

「行ったことのない場所へ行かなきゃいけない。いた場所に戻るんじゃなくて」

「どこかに行きたいとき、ときどきじっと待っていると、どこかの方がきてくれる」

 

対照的な言葉のようですが、プーさんは行くべきどこか、行きたいどこかが、ただの場所ではないことを知っています。

また、プーさんはいなくなった仲間を探す中で、「僕がみんなを見つける」ことと、「みんなが僕を見つける」ことを同列に語るんですね。

こうした視点の転換はとても大切な生きるヒントです。

 

「クマのプーさん」と同じように親しまれてきた児童文学「星の王子さま」を書いたサン=テグジュペリが「人間の土地」のなかで描いた勇気のあり方も、プーさんが自然に実践している距離をとらえる視点の転換に通じます。

 

サハラに不時着遭難したサン=テグジュペリは、飢えと渇き、孤独や恐怖と闘いながらさまよう間に、自分たちを心配し必死で探しているはずの友人や家族に思いを馳せ、逆に「僕らが君たちのもとに駆けつけてやる!僕らこそは救援隊だ!」と力をふり絞り3日間を歩き通して生還するのですが、それは自分たちの現在の肉体的苦痛より、大切な人たちが自分たちを思って悲しむ心の方をより重要なものと感じることができる勇気です。

 

そして同時に、行きたいどこかが自分を見つけてくれることを待つこともまた勇気で、それは自分がどこかを探しているように、どこかもまた自分を探してくれているはずだと信じる勇気です。

 

迷子の私たちに必要なのは大切なものとの距離のとらえ方

どこかへ行きたいとき、どこかの方が自分のもとへ来てくれるのをじっと待つ勇気。

誰かとはぐれてしまったとき、誰かが自分を見つけてくれるのを待つ勇気。

それはこれまで自分が築いてきた環境や信頼関係、そして自分がしてきた努力や勉強の成果を信じることです。

 

どこかへ行きたいとき、これまでいた居心地のいい場所を離れてリスクをとる勇気。

誰かを見つけるため、自分の持てる力をふり絞り苦労をいとわない勇気。

それは新しく自分の居場所をつくりあげて環境を築き、信頼を獲得し、人生を切り拓くためにもがくことです。

 

今が迷子のように感じるときには、迷子から抜け出すために歩くべき距離に思いを馳せて、持つべき勇気を奮い立たせなければなりません。そして、そうできたとき、私たちはただの迷子ではなく、勇敢な冒険者になります。

プーさんの言葉は私たちにむけられた力強いエールです。

 

大人だって風船が欲しい

引用元:©2018 Disney Enterprises, Inc.

プーさんの優しい励ましを噛みしめるのに、とってもいい映画でした。

ヴィンテージ感が出ているプーさん、毛玉が浮いているピグレットの可愛さは子どものためだけじゃなく、疲れた大人の胸こそをうちますね。

こんがらがって生きてる今を、もうちょっとだけ解きほぐしてシンプルに、ときには仕事より赤い風船に胸をワクワクさせたっていいじゃないか、そう思わせてくれる映画です。

 

大人になるっていうことは、どこかを目指してもといた場所から離れること。

大人になるってちょっとの間、迷子みたいになることでもある。

迷子であることが辛いとき、さみしいときには、来た道をちょっと振り返り、そして足元を見てみるといい。

 

「今日はなんの日?」

「今日は今日だよ」

「よかった、僕の一番好きな日だ」

 

 

おわり。それでは。

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サマー

ライター/編集者 ベルリン在住。フリーランスでいろいろ書いています。ときどきイラストも。フェミニスト、動物好き、HSP気質。お仕事のご相談歓迎です。

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