ベルリンときめけどひとり6

考え方

自己主張が苦手なわけを考えてみた

2020年11月24日

生きるのがそんなにうまくないへなちょこ人間によるあんまり参考にはならないベルリン暮らしのひとりごと日記。

生活に正解があるのかなんてわからないけど、不器用な日々のなかに思うあれこれをぶつぶつと綴ります。

 

自己主張って難しい。

ベルリンで出会う人たちの色とりどりな自己主張には驚かされるばかりです。

どうして私は自分の希望を口に出すことが苦手なんだろう。

理由を考えてみました。

 

目次

自己主張が苦手なわけを考えてみた

「先に並んでいたので注文してもいいですか?」

 

状況や都合で発生する自分の要望や希望を口に出して伝えること、みなさんはできていますか?

私、そういう自己主張全般がほっんとーに苦手なんです。

 

駅の売店でパンを買おうとしていた時のこと。

明日の朝食べる用にいくつか選ぼうとショーケースにはりついていると、ちょうど到着した電車から降りた人でお客さんが増え始め、何人かに注文をゆずってやっと買うものを決めた頃には、売店のまわりにはちょっとした人だかりが。

 

レジカウンターから少しずれた位置に立っていたので、気づくと人だかり(並んでいるというわけではない)の中にざっくりできあがっている注文の流れにのれていなくて。

 

「おやおや、失敗したぞ」

内心そう思いながら、店員さんに視線と一緒に念を送ってみるも、そんなのは当たり前に届きません。

 

今から人のかたまりの後方に移動するのもなんか違う。

けど、このままだと永遠に注文できない。

うーん、どうするどうする?

 

挙動が不審になってき始めた時、人だかりの中にいたカーリーヘアをきゅっとまとめた女性が、自分が注文する代わりに「あなた先にいたわよね? 彼女の注文が先よ」と店員に言ってくれたんです。

そのお陰で無事にパンを買うことができたのですが、女性に2、3回ダンケシェンを言って、帰り道大反省です。

 

誰かがなんとかしてくれるのを待ってしまって、「注文していいですか」の一言が口に出せないのはどうしてなのか。

助けてもらわなきゃパンも買えないのか、このーーーばかーーー!

 

ストリートテニスで遭遇した強者たち

ベルリンには無料で使える卓球台やテニスコートがあって、私は時々パートナーのS氏と近所のコートにテニスをしに行くのですが、ある日、ラリーをしていると突然レイカーズのユニフォームを着た男性に声をかけられました。

マルコという名前のセルビア出身の彼、S氏が上級者なのを目敏く見つけて、ぜひ手合わせしたいと言うんです。

 

すでに息が上がっていた私にも一応許可を取ってくれたので、すぐに承知しベンチから観戦することに。

 

大学生だけど勉強そっちのけで毎日長時間ここでテニスをしているらしいマルコ、全球遠慮のない剛腕フルスイングで、ラリーはどんどんと激しさを増し、ボールを目で追う私はバブルヘッド状態。

テニスって、実力差があると片方は全力が出せないから、力試しがしたい人は上手い人とラリーをするのが楽しいんですよね。マルコは目を輝かせていきいきしていました。

 

ケンカのような交渉も日常

全力ラリーが始まって20分ほど経った頃、自転車に乗ってコートにやってきた青年が、ラリーを見て代わって欲しいとマルコに声をかけたんです。

マルコが、ノーの一言で一蹴したので、新参の彼は私と並んで一度はベンチに座りましたが、さらに5分ほど経つと再度マルコと交渉を始めます。

 

自己主張が苦手なわけを考えてみた

ベルリンのフリーテニスコートは一つのコミュニティになっている。

 

そのやり取りが、端から見ていると喧嘩にしか見えないんですよ。

見ているこっちがオロオロしてしまうほど2人ともヒートアップしていて、もはや怒鳴りあい。

 

結局マルコはまた新参の彼を追い払い、さらに全力ラリーを続けた末、S氏にラスト1球を言い渡されてやっとベンチに戻ってきました。

新参の彼はすかさず「俺ともやろう!」とS氏に言い寄り、息をつく間もないS氏です。

 

私は2人のコミュニケーション能力と積極性にまずは驚かされ、そしてマルコと新顔の彼がその後ベンチでケロッと談笑していたことにもかなりびっくりさせられました。

あの言い争いが、彼らにとっては単なる日常の自己主張に過ぎないということを目の当たりにして衝撃を受けたんです。

 

「察して」じゃ伝わらない

言葉にされる前に察するということは、美徳の一つに数えられていますよね。

一方、私はベルリンの街で、口に出さないと希望や要望は他者に伝わることはない、つまり「察して」は通用しないという共通認識を感じることが多いです。

 

同時に自分の望みを強く主張する表現が寛容に受け止められていることも折に触れて感じています。

自己主張に対して、「社会の目」とか「世間体」といった同調圧力が発生しにくい環境があるように思うんです。

 

察することだけに重きをおいていると、その風潮と対になるように、大勢の中で自分の希望や要望を主張する人が現れた時に、自己中心的に感じて白い目で見たり、協調性がないというレッテルを貼ったりしてしまう。

 

実際、私が「〇〇がしたい」「〇〇はいやだ」って、声に出すのを難しく感じているのは、そうした主張を大声でする人に私自身が偏見を持っているからなのかもしれません。

ただ勇気を出せばいいってほど単純な話でもない気がしてきました。

 

幼児教育にはどんな違いがあるの?

 

一台のブランコがあったとします。

子どもAがブランコに乗って遊んでいるところに、子どもBがやってきました。

Bは自分もブランコに乗りたくてAが遊んでいるそばに立ってずっと見ています。

ところがAはなかなかブランコから降りようとせず、Bはいつまでたっても代わってもらうことができません。

さて、そんな時、ドイツでは子どもたちにどんな指導をするのでしょうか。

 

これは、ベルリンで児童養育に関わる仕事をする友人から聞いた幼児教育方針の話。

答えは、ブランコに乗りたくて黙って待ち続けているBへの声かけなのだそう。

 

Bに、「ブランコに乗りたいのなら、「ブランコに乗りたいから代わって」と口に出してAに伝えなさい」と指導をするというのです。

そして、BがAに「自分も乗りたい」という意思表示をしたあとで、それでもAが譲ろうとしなかった場合、初めてBに「譲り合ってブランコを使いなさい」と指導を行い、待っているのを見ただけで相手の希望を汲んで動くことを諭したり、Bに代わってAにBの希望を代弁するようなことはしない。

自分の希望や都合は自分で口に出して相手に伝えなさいと、幼少期から教えられるんですね。

 

私は口に出して希望を伝えるより、待つのを我慢する方が楽だと思っていました。

なんなら辛抱強さや気の長さに自信があったくらいです。

 

だって第一声を発するのってすごく勇気がいるし、怯えて口にした一言ってだいたい聞き直される。

ちゃんと伝わらないのも怖いし、どんな反応をされるかも怖いし、まわりの人にどう見られるかも怖いし、とにかく怖い。

 

だけど、このままじゃ「察してくれる人」だのみの他力本願、人まかせ生活しか送れない。

誰かの助けを待つことをもういい加減やめたーい!

幼稚園からやり直してるつもりでやっていくしかないな。

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サマー

ライター/編集者 ベルリン在住。フリーランスでいろいろ書いています。ときどきイラストも。フェミニスト、動物好き、HSP気質。お仕事のご相談歓迎です。

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