「夜勤になれば分かるよ」
精神科勤務時代の話だ。
新人の私を担当する先輩ナースが、そんな言葉を口にした。
その先輩は稀に見る白衣の天使で、この人の行動や言葉に、人への悪意が含まれるのを、聞いたことがなかった。
そんな先輩がぽつりと言ったのが、ある看護師への否定的な言葉だった。
「yuzukaちゃん、あの人のようにはならないで」
ある日突然そんなことを言われて、驚いた。
「あの人」と言われる佐々木さんは、とても仕事が出来る、優しい人だったからだ。
「どうしてですか?」
キョトンとする私に、静かな声が帰ってくる。
「夜勤になれば分かるよ」
夜勤は、看護師のみの2人体制だった。
日勤帯には何十人ものスタッフがいるのに対し、
夜勤はその病棟に、2人のスタッフしかいないため、「スタッフの本性」が出やすい。
いつもある「周囲の目」がなくなるため、患者さんへの態度や、ステーション内での発言に、歯止めがかからなくなる人がいるのだ。
佐々木さんと初めてペアを組むことになったのは、先輩から意味深な発言を聞いてから、わずか三日後のことだった。
私は少しだけ恐怖を感じながらも、夜勤に備えた春雨ヌードルを両脇に抱え、いつものように出勤する。
「お疲れ様です」
40分前に出勤したのにも関わらず、佐々木さんはもう、とっくにステーション内にいた。
「あぁ、yuzukaちゃん。よろしくね。てきとうに頑張ろう」
佐々木さんはにっこり笑い、電子カルテの各患者情報に目を通し始めた。
先輩の言うことは間違いなのではないだろうか。この人が変な人だなんて思えない…。
そう思いながら、準夜勤の看護師からの申し送りを終え、私たちは本当に2人きりになった。
「看護計画、まだ全然かけてないんだ」
「私なんか開いてもいません」なんて会話に笑い合ったりしながら、穏やかで平和な時間が流れる。
佐々木さんが豹変したのは、その直後だった。
夜中の三時を回った頃、夜行性の患者さん達が、もぞもぞとイタズラをはじめた。
全裸でホールに来てジャズダンスを踊ったり、
ナースステーション前の造花を食べようとしたりしている。
私はそんな「日常」の光景にくすりと笑いながら、時には指導したり、頓服を飲ませたりしながら、対応におわれていた。
「yuzukaちゃん。ここからは私が対応するから、4時半まで仮眠して良いよ」
しばらくして、佐々木さんが言った。
夜勤の仕事の分担は、先輩が決めることになっていたので、私はなんの不信感も持たず、仮眠をとることにした。
ステーション奥の診察室で目を閉じていると、ホールで奇声をあげている声が聞こえる。
それとほぼ同時に、ステーションから、佐々木さんが出ていく音が聞こえた。
「対応してくれるんだ、今日は平和そうだ」と、思った。
暫くウトウトしてから、異変に気づく。
先程までいろんな音が聞こえていたホールが、やけに静かだ。それに、佐々木さんが帰ってこない。
「もしかして何かあったかな?」
いろんな可能性が頭に浮かぶ。私は仮眠を辞め、病棟の様子を見に行くことにした。
懐中電灯で照らしながら、病室をまわる。
特に問題はない…。
声をかけながら、一部屋一部屋を探した。
おかしい。佐々木さんがいない。
疑問に思いながら、先程までホールで奇声をあげていた患者さんの病室に差し掛かろうとした時、思わず懐中電灯の光を消し、ドアの後ろに隠れた。
四人部屋の端のカーテンが半分引かれている。
そこから、小さなうめき声と、佐々木さんの声が聞こえた。
見間違いだと信じたかった。だけど、そうじゃない。
佐々木さんは患者さんに馬乗りになり、片手で口を封じ、もう片方の手で、患者さんの腕を、思い切りつねっていた。
そしてうめき声に向かって、こう言った。
「お前今、馬鹿って言うたな。頭やられてここに入院しとるようなお前が、看護師にばかっていう権利があると思ってるんか?言うこときかんと、どないなるか分かってるな?ここでは看護師が絶対なんじゃぼけ」
生まれて初めて、寒さ以外での震えが止まらなくなった。冷や汗が湧き出る。
とにかく患者さんを解放しなくてはいけないと思った私は、わざと大きな声で「佐々木さーん」なんて呼びながら、病室に入った。
「あぁ、ごめんね。この人転倒してたから」
佐々木さんは、さっきまで別の人が乗り移っていたかのような切り替えぶりで、患者さんを床からひっぱり起こして、笑顔で言った。
「暗いんだから気をつけないと、また転けるよ」
目次
頭をよぎったのは、あの実験だった
スタンフォード監獄実験をご存知だろうか?
アメリカ合衆国のスタンフォード大学で、実際に行われた心理実験だ。
スタンフォード監獄実験
普通の人が特殊な肩書きや地位を与えられることによって、その役割に合わせて行動してしまう事を証明しようとした実験。
実験期間は2週間で、募った大学生21人の内11人を看守役に、10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を、実際の刑務所に近い設備を作って演じさせた。その結果、時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるという事が証明された。
これは2回にわたって映画化されたこともある、有名な心理実験だ。
この実験は被験者の精神を破壊し、その結果、看守役による囚人役への暴力行為等が深刻化。
最終的に実験は中止される。
「ただの大学生」が、立場の違う役割を与えられ、閉鎖空間に閉じ込められる。
たったそれだけで、その役割にそった著しい上下関係を形成させてしまう。
精神科で勤め始めて、この実験が頭をよぎったのは、佐々木さんの事件の瞬間だけではなかった。
「精神科」の歴史そのものが特殊だということも関係し、その他の病院と比較すれば、その「閉鎖具合」の差は、歴然だ。
本来は「患者様」に敬意を払うはずの看護師が、暴言や暴力に近い行為で患者さんを支配しようとする場面に、たびたび出くわした。
実験に当てはめるのであれば、看守役は看護師。囚人役は、患者さんだ。
医師はほとんど現場に居合わせないその環境で、その気になれば拘束器具をつけることもできる看護師は、絶対的権威を持った存在かのように、錯覚しているように思えた。
家族と縁が切れていたり、そもそも言葉をうまく話せない、伝えられない人が多いわけだから、何をしたって咎める人がいない。
だから「昔の精神科」の名残を残したまま、酷い勘違いと、それに伴った態度がエスカレートしていく。
そんな場面に出くわす度、あの心理実験が頭によぎり、身震いした。
私もいつかそうなってしまうのではないかと、怖かったのだ。
「佐々木さん」がどうなったか。
もちろん摘発し、退職という形になった。
しかし問題は、今まで誰も声をあげなかったこと。そして退職に至った時に、こんな声があがったことだ。
「誰がチクったの?患者かな?佐々木さんが可哀想」
1人を虱潰しに退職させたところで、根本的なところを改善しない限り、何も変わらないのだと絶望した。
きっとまだ「佐々木さん」はいる。
そしてこれからも「佐々木さん」は現れる。
これから精神科で働く人へ
きっとあなたが勤める病院にも「佐々木さん」のような人は存在する。
その人から患者さんを守れるのは、声をあげられるのは、あなただけだということを忘れないでほしい。
精神科にどっぷり使っているスタッフには、どうしても麻痺してしまっている部分がある。
初めて足を踏み入れたあなたの新鮮な目が、病院を変えていく。病院を良くする。
「おかしい」「いけない」
そう思ったら、どうか恐れずに、声を上げてほしい。その後の仕打ちが怖いのなら、投書箱でも良い。
(精神科には投書箱の設置が義務付けられている)
どうか、有耶無耶にしたまま、あなたまで染まってしまわないで。
看守役に、なりさがらないで。
「おかしい」と思える心を大切にして。あなたは間違えていない。
時々、私の記事を読んだ看護学生さんから、メッセージが届く。
「yuzukaさんのような精神科の看護師になります」
その言葉は、ほかのどんな言葉よりもキラキラとして、眩しい。
大丈夫。きっと良くなる。
これからの精神科を変えられるのは、あなた達のような人だから。
yuzuka
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