⚠︎この記事にはネタバレを含みます
シュガーラッシュオンライン、見た。
とにかくすごいものを見た。という感想だった。
実は私、映画館でやってる最新映画はほとんど目を通すくらいの映画好きなんだけど、
いつもは映画の感想ってなんだかステマっぽくて、胸に留めておくだけにして、記事にはしないのだ。
だけど今回のシュガーラッシュだけは、どうしても記事にしたくなった。
それくらい、「すごい」映画だった。
私はひどく現実主義で、どんな映画を見ていても、いろんな部分につっこみどころを探してしまう。
「さっき潰れたビルはどうなったの?」「傷が治るの、早すぎない?」「こんな偶然、あるわけないじゃん」
そうやって細かい部分を気にしては、その映画の本質的な部分を見逃してしまう、悪い癖があった。
だけどそんな私が全ての「現実」を放棄して見られる作品が、まさしくディズニー、それも、プリンセスシリーズだった。
ディズニーに、現実世界での常識は通用しない。
鳥は日本語を喋るし虫は笑うしネズミは服を作っておもちゃは動き、人魚や魔女や魔法使いが、次から次へと登場する。
どんなに大変そうな場面でも気がつけば全員で歌って踊り出すし、考えられないほどの偶然が幾度となく重なって、
そして物語は必ず、ハッピーエンドに終着する。
考えられないほど非日常的で、ありえない夢物語。
だけど私はそのどれもに、「?」を感じない。
それどころか一緒に見た誰かに「どうして虫が喋るの!?」なんて聞かれようものなら、
目を丸くしてこういうだろう。
「あなた、ディズニーを知らないの?」
そう、だってそれが、ディズニー映画の常識なのである。
ディズニーが作り上げた世界を目の当たりにするとき、私たちは自分の世界の常識を、すこしの間だけ、おいてけぼりにできる。
ディズニーランドでミッキーを着ぐるみ扱いする人はいないし、ディズニー映画を見て動物が喋ることに不信感を示す人はいない。
それが私の、ディズニーの大好きなところだった。
ディズニー映画は「見る」ものではない。「体感」するものなのだ。
さて、そんな非日常の夢物語を得意とするディズニー映画。
とりわけ女の子の心を掴み続けていた「プリンセスシリーズ」が、近年めまぐるしい進化を遂げているのをご存知だろうか?
白雪姫、シンデレラを筆頭に、女の子の憧れを描いてきたお姫様の世界。
素敵なドレス、スマートな王子様とのキス、結婚。
ディズニー映画の当たり前に、私はなんの疑問も抱かず、どっぷりと浸ってきた。
そんな私の頭を軽くこづいたのが、近年大ヒットを果たした「アナと雪の女王」の、アナとエルサだった。
彼女達は確かに綺麗なドレスを身にまとうが、最後のハッピーエンドは、王子様との結婚ではなかった。
彼女達を通してディズニーが描いたのは姉妹愛。
ディズニーが家族愛を描くことは幾度となくあったが、プリンセス映画でそこを中心的に描くことに、意外性を覚えた。
そしてその後、ラプンツェルが登場した後、私にとって一番驚いた、記憶に新しいプリンセス、モアナが登場する。
モアナは、ディズニー映画のプリンセスの常識に、ことごとく当てはまらないプリンセスだった。
彼女は冒険心のかたまりで、所作に所謂「女の子らしさ」がないし、フリフリのドレスも着ていない。
そして彼女の世界には、王子様が登場しない。マウイという男性キャラクターは登場するが、
彼はあくまで「相棒」で、恋愛関係には発展しないのだ。
それどころか彼女の物語はそもそも「愛」を中心としなかった。
恋愛でも親子愛でも兄弟愛でもない。
物語は最後の最後まで、ひとりのキャリアウーマンの冒険、ストーリーを追いかけた。
家族や島を守りながら、自分が心惹かれる夢と掛け合わせた仕事の実現の方法を模索するモアナ。
今までも戦うプリンセスは登場したが、モアナが彼女達と決定的に違うのは、王子様がいないこと。
そして家族や王子様なんかよりも「冒険」を中心に描かれているということ。
彼女が歌う歌にすら、王子様への憧れは存在しない。
彼女の物語に甘いキスは登場しないし、王子様に助けられることはおろか
出会うこともなく 、相棒のマウイと共に、戦いに勝利する。
あの映画が公開されてすぐに映画館に足を運んだ友人は、映画館を出た直後のラインで、
こんな言葉を送信してきた。
「今までのプリンセスの定義が崩された」
私はその言葉に期待と不安を抱きながら少し遅れて映画を鑑賞し、そして友人と、同じ感想を抱いた。
「プリンセスが変わってしまった」
そして心によぎったのは、こんな思いだった。
モアナは本当に、プリンセスに含まれるのだろうか。
あれはプリンセス映画なの?
私の中ではどうしても、彼女が「プリンセス」のイメージに当てはまらなかった。
でも、映画の中のセリフで、その私の疑いは、はっきりと粉砕される。
モアナ「あのね、わたしはプリンセスじゃない。族長の娘だよ」
マウイ「いいや、プリンセスだね。ドレスを着て、動物の相棒をつれてるんなら、プリンセスだろ。ナビゲーターにはなれない」
『モアナと伝説の海』劇中の台詞より抜粋
彼女はまぎれもないプリンセス。
ディズニーは、愛以外での女性の輝き方があることを、モアナを通して、伝えたかったのだ。
思えばモアナの前に登場したラプンツェルも、少しだけ今までの「プリンセス」と違うところがあった。
彼女は、王子様となるユージーンを、フライパンで殴り、椅子に縛り付ける。
数々の冒険を乗り越えたあと、彼女は王子様に見初められて幸せになるのではなく、自分で男性を見極めて、婿に迎え入れた。
今までは王子様に選ばれてこそ「プリンセス」になれたという常識を覆したのは、彼女だった。
(アラジンのジャスミンもこれに近いが)
王子様との結婚が最終結末ではない、アナと雪の女王。
仕事や冒険を中心に生きる強さを描いたモアナ。
王子様を婿養子に入れたラプンツェル。
彼女達は私の知っている「プリンセス」とは、異なっていた。
そう、今確かに。
「プリンセス」の定義が変わり始めている。
どうしてこんなにも、「プリンセス」は変わっていくのだろう。
正直に言おう。
私はこの頃から、変わりゆくプリンセス映画に、寂しさを覚えていた。
私の一番好きなプリンセスはアリエルで、彼女の他には、シンデレラや白雪姫、美女と野獣のベルが好きだった。
昔見た、ディズニー映画の常識をふんだんに盛り込んだ「プリンセス」こそ、私を非日常へと誘う憧れの存在だったのだ。
だからとくにモアナを見た時は、期待外れ感さえ感じた。
私が求めていたのは、王子様とのハッピーエンドで、「仕事と冒険に生きる女性の話」ではなかったのだ。
私の手の届かない美貌を持っていて、動物と話せて、王子様と出会う強運を持ったお嬢様。
それが私にとっての「プリンセス」だった。
目次
「こう見えて私はプリンセス」現れたのはパーカーを着た6歳の女の子
シュガーラッシュオンラインが公開されると知ったのは、テレビでの予告編を見た時だった。
「こう見えて、彼女はプリンセス」
まずはその言葉に、驚愕した。
「この小さな普通の女の子が、「プリンセス」!?」
テレビに釘付けになった私の目に、更に追い打ちをかけるシーンが飛び込んでくる。
歴代のプリンセス達が集結した「プリンセス専用の部屋」に紛れ込んだ小さな女の子。
大切なはずのガラスの靴を躊躇なく割って、女の子に睨みながらつきつけるシンデレラ。
「私もプリンセスなの!」という女の子に、次々に飛んでくる質問。
「魔法の髪は?」「魔法の手は?」「動物とおしゃべりは?」「毒は?」
それは私が描いてきたプリンセスの定義で、小さな女の子はその質問に、ことごとく首を横に振る。
質問はエスカレートし、
「(本物のプリンセスなら)誘拐や監禁されたことは?」と、キラキラした眼差しで問いかけるベルとラプンツェルに対し、「警察を呼ぼうか?」と心配する少女。
そして極め付けには、「背が高くて強い男性に、幸せにしてもらったって、みんなから思われてる?」という質問である。
はじめて頷く小さな女の子に、プリンセス達は歓喜の声をあげる。
「「あなたは本物のプリンセスだわ!!!」」
この予告編には、衝撃を受けた。
まずはキャラクターのアニメーション。
あの優雅で美しく繊細な白雪姫やシンデレラ、ベルが、近代版プリンセス達と同じ、3Dに描き直されていた。
そのうえ直接的で現実的な質問の数々である。はっきりいって、ありえないと思った。
それだけではない。
よく知る楽天やツイッターのロゴに、時間。
今までディズニーの映画で感じたことのなかった現実世界が、この映画ではどっぷりと描かれているように感じた。
どうしてプリンセスは変わっていくのか。
その予告編を見た私は、改めてまたその疑問とぶつかることになる。
時代の変化といえばそれまでだが、それにしても大きく、根底から変化をつけていくのには、きっと理由があるはずだ。
そしてたどり着いたその「理由」が、フェミニストとディズニー映画の、長きに渡る戦いであった。
まず,従来からフェミニズム的思考の人々は,ディズニー映画で描かれる主人公のプリンセスが,男性的目線のプリンセス像であるとして批判をしてきたことは皆さんも聞いたことがあるのではないだろうか。
フェミニズムからの批判は,実にシンプルなものである。
シンデレラ,白雪姫,眠れる森の美女などのプリンセスは実に,伝統的な女性らしく慎ましやかであり,かよわく,白馬の王子様に助けられるという設定が男性的な視点で,女性のあるべき姿をステレオタイプ化しているという主張である。
「ディズニープリンセスは男性が求める女性をキャラクター化したもの」
彼女達の目にうつる私の大好きなプリンセスは全て、「男性のために尽くす可哀想な女性」なのである。
これには驚いた。
眠れる森の美女のオーロラは、自分の意思の同意がないまま突然王子様にキスをされても文句を言わないし、
白雪姫は、七人の小人(男性)の家で、掃除をさせられる。
リトルマーメイドのアリエルの人生の選択には全て男性の意思が絡み、
美女と野獣のベルに至っては、野獣に支配され……あれは完全にドメスティックバイオレンスではないか!
プリンセスは皆、決められているかのように強制的にドレスを着せられて、常に美しいメイクをさせられている。
どんな時も慎ましさや上品さを求められ、常に男性に敬う。
全てのプリンセスは王子様に助けられて、結婚し、始めて幸せを得る。
これではまるで、女性の幸せは「男に結婚してもらう以外にない」とでも言いたげだ。
始めて目にするフェミニズム的観点から見たプリンセスへの批判は、確かに頷けるものもあり、
私の考えを一新するきっかけになった。
実際、ディズニーは彼女達の声を大いに取り入れ続け、プリンセスのありかたを見直してきたのだ。
そういえばマレフィセントはまさしく、フェミニズム的思想を取り入れ、物語を根底から書き直したとも言える作品だ。
私が「期待はずれだ」と思ったモアナも、自立したプリンセスが「女性らしさ」に縛られることなく、愛以外の幸せを見つけることを描いた作品。
なるほど。ディズニープリンセスは変わり続けている。
……良い方向に?
そこまで調べてその結論にたどり着こうとしてみた私だったが、どうしてもどうしても、まだ納得ができない。
何かモヤモヤのようなわだかまりが、胸の奥でつっかえた。
「見に行こう」
シュガーラッシュオンライン。
とにかくその作品が気になった。
おそらくこの作品はディズニーの歴史を覆す程のものかもしれないと思ったのだ。
【STORY】
ヴァネロペとラルフは、アーケード・ゲームの世界で暮らすゲーム・キャラクター。見た目も性格も正反対だけど、ふたりは大親友。レースゲーム<シュガー・ラッシュ>の天才レーサーにしてプリンセスのヴァネロペは、好奇心旺盛で新しいことやワクワクすることが大好き。
一方、不器用だけど心優しい悪役キャラクターのラルフは、ゲームの世界の変わらぬ日々を幸せだと感じていた。
ある日、<シュガー・ラッシュ>のハンドルが壊れ、廃棄寸前の危機に!インターネットの世界では何でも手に入れることができると知ったヴァネロペとラルフは、ハンドルを手に入れて<シュガー・ラッシュ>を救うため、インターネットの世界へ向かう。
新しい世界に飛び込んだふたりの前にどこまでも広がるのは、高層ビルがそびえ立つ、カラフルな巨大都市。ゲームの世界しか知らないふたりにとって、見るものすべてが新鮮で刺激溢れる世界だった。戸惑うラルフとワクワクを隠せないヴァネロペは、ほどなくオークションサイトでハンドルを見つけて大喜び。ところが、より大きな数字を言った者が勝つゲームと勘違いして、あり得ないほどの高額で落札し、24時間以内にお金を稼がなくてはならないはめに!
刺激的なインターネットの世界で、<スローターレース>のカリスマレーサーシャンクと出会い、新たな夢を持ち始めたヴァネロペは、この世界こそが自分の本当の居場所なのだと運命を感じていく。一方ラルフは、ハンドルが手に入ったら、親友ヴァネロペと元の世界に戻るのだと当然のように思っていた。次第にふたりの心はすれ違い、思わぬ出来事を引き起こす。
そして、インターネットの世界に崩壊寸前の危険が迫ったとき、ふたりの冒険と友情も最大の危機を迎える・・・。果たして<シュガー・ラッシュ>とふたりの運命は!?
ディズニー「シュガーラッシュオンライン」公式ページから引用
結果、シュガーラッシュオンラインは、私の予想した通り、いや、予想を大きく上回って
ディズニープリンセスの歴史を塗り替えた。
ディズニー調にアレンジしてはいるが、目に飛び込んでくるのは現実世界。
ヴァネロペが住むゲーム「シュガーラッシュ」の危機を救うため、Wi-fiに飛び乗って二人が向かったのは、インターネットの世界。
Twitterに楽天、電子マネーにネットオークション。全て実名、そのままのロゴで登場する。
プリンセスのヴァネロペと相棒のラルフは、限られた時間の中で、壊れてしまったハンドルを手に入れて自分達の居場所に戻るため、常に時間とお金に追われ、追い詰められ、怪しいポップアップ広告をクリックしてみたり、youtuberとしてデビューして一攫千金を目指して体を張ったギャグで視聴者数を集めようとし、誹謗中傷を受けたりもする。
そこに、私達の知る「優しくあたたかいお姫様の世界」は存在しない。
歌う鳥も、素敵な森も、妖精も、優しくてスマートな王子様も存在しない。
そこにあるのはよく知るインターネットの世界と、シュガーラッシュというゲームの世界から飛び出した天才レーサーで、パーカーを着た、小さな少女、ヴァネロペと、その少女の「たった一人の友達でいたい」と依存し続ける女々しい男、嫌われ者のラルフだった。
さて、ここからは早足で書き進める。
物語は終始、二人の友情を描き続けるが、中盤から結末までのストーリーは、是非、劇場でご覧になってほしいのだ。
私の視点で語りたいのはあくまで、この物語の「プリンセス」のありかたについてである。
シュガーラッシュオンラインには、とにもかくにも知っているキャラクターがことごとく登場する。
道でぶつかるのはpoohのイーヨー、「時間ですよ」と呼びに来るスタッフはスターヲーズのC3PO.
町を歩いているのは有名ゲーム、ストリートファイター2に出て来る格闘技キャラや、パックマンのキャラクターにマリオのクッパ。
「え、あのキャラクターも出ているの!?」と、それだけで泣きそうになるくらいに豪華で、画面に釘付けになる。
そしてそれぞれのキャラクターはシュガーラッシュ用にアレンジされることなく、体型もアニメーションもタッチも、
全て「そのまま」で表現されているのだ。
しかし一方で現代版ディズニーとして、あえて姿形を変えられていたのが、予告にも登場した、プリンセス達だった。
白雪姫もシンデレラも、昔の切れ長の目やイラスト調のタッチを捨て、アナやエルサと同じ、大きな目とふんわりとしたほっぺたが特徴のあの3Dバージョンで登場する。
他のキャラクターがそのように改変されていないところから、それが「あえて」であろうということは、すぐに分かる。
そしてこともあろうことか、プリンセス達はヴァネロペが着ているパーカーを羨ましがり、
ネズミに服を作らせる。次のシーンで彼女達はパーカーに着替え、すっぴんであぐらをかき、寝ながらおかしをほおばりながら、こんなことを話すのだ。
「ああ、これが着れる日が来るなんて!なんていったけ…そう、シャツ!」
アリエルが歌いだそうとすると、ヴァネロペが疑問を呈する。
「どうして突然歌うの?どうしてひとりでにスポットライトが当たるの?」
今までに歌おうとして疑問を呈されたディズニープリンセスが存在しただろうか?
プリンセスは目を丸くし、こう答える。
「水をのぞくと、歌が始まるのよ」
「水って?」
「食器洗いの泡の中とか、湖とか。自分の大切な『水』よ」
だってプリンセスだもの。当たり前じゃない。とでも言いたげな表情だ。
もちろんヴァネロペは「なにを言ってるんだ」という顔でとりあえず納得したふりをするが、
このシーンだけで、ディズニーは、「ディズニープリンセスのあたりまえ」を、新しいプリンセスヴァネロペに、
あえてはっきりと言葉で否定させているのだ。
そしてパジャマパーティーの後、C3POに「皆さん、出番ですよ」と声をかけられれた彼女達は言う。
「はあ、またドレスを着なくっちゃ。」
彼女達は、「働いている」のだ。ドレスを着て。
そこに王子様は登場しない。
そしてもうひとつ、印象に残った点があった。
例のセリフ、「背が高くて強い男性に、幸せにしてもらったって、みんなから思われてる?」の言い回しが、
映画の本編で、少しだけ変えられていたのだ。
「背が高くて強い男性に助けてもらわないと、なにもできないって思われてる?」
ほんのわずかな変化。
そのセリフは予告編とほとんど同じ意味ではあるものの、私の頭の中には、強烈なインパクトを残した。
故郷を捨てるプリンセス
そして極め付けに冒険の途中、ヴァネロペは、危険なゲーム、スローターレースのカリスマレーサーシャンクという女性と出会い、憧れ、そのゲームでの刺激的な人生を、夢見るようになる。
「今までに感じたことのない感覚なの。シュガーラッシュは、いつも同じ。展開が読めちゃう」
彼女はシャンクとともに、自分の故郷を捨て、そのゲームで生きていくことを決めようとする。
「ラルフに悪い」という気持ちはある。だけど、それに勝る、本能の部分で、彼女はそのゲームに残ることを、求めていた。
そして悲しいことにそれを止めようと邪魔を入れるのが、彼女の親友で相棒の女々しい親友、ラルフ。
インターネットらしく、スローターレースのゲーム内にウイルスを入れて、スローダウンさせ、彼女が「このゲーム、面白くない」と、自分のもとに戻ってきてくれる作戦を目論む。
しかしこともあろうことか、そのウイルスは暴走を始め、自分の親友のヴァネロペを命の危機に立たせる事態にまで発展してしまうのだ……。
さて、いつものディズニーであればきっと、なんだかんだと悶着があったあと、ヴァネロペが危機に立たされ、ラルフが助けに入り、仲直りをするだろう。
ラルフに助けられたヴァネロペは、彼女のハンドルを手に入れて一緒に帰るために体を張ってお金集めをしていた心優しい親友、ラルフの優しさや、故郷である「シュガーラッシュ」での生活、仲間の尊さに気づき、あるべき場所に帰り、幸せに暮らすことを選ぶ。
シャンクには、「たまに遊びにくるね」と告げて、故郷に帰るのではないだろうか。
(そしてあわよくばラルフとヴァネロペが結婚、幸せに暮らす)
しかし今回のエンディングは、そうはならなかった。
最後の最後まで、ヴァネロペは自分の意思を曲げず、本能を優先する。
つまりは故郷を捨て、親友と別れ、新たな刺激的な世界で生きることを選ぶのだ。
そしてもうひとつ、確かに彼女は危機に立たされるが、それよりも危機に立たされるのは、まさかのラルフであった。
そしてそのラルフを助けるのは……。
王子様でも、ヴァネロペでもなく、
「背が高くて強い男性に助けてもらわないと、なにもできないって思われてる?」と問いかけた、あのプリンセス達だった。
彼女達は自分達の力を使い、あの手この手でラルフを助ける。
「だってヴァネロペは私達の友達だから。ヴァネロペの友達は、私達の友達だから!」
気を失ったラルフは彼女達に助けられ、ドレスを着せられ、ベッドに落下する。
目を覚まさないラルフがどんな結末を迎えたか。
最後はプリンセスが用意したカエルのキスで、目を覚ました。
この映画では、男性代表であるラルフが、ことごとく弱い存在として描かれた。
自立心がなく、ヴァネロペに依存している。確かに心優しくはあるが、自分がない。
一方ヴァネロペは、勇敢で、自立心があり、刺激を求め続ける女の子。
最後の最後まで、自分の意思を貫く。
この映画を見た感想は、「なんて皮肉なのだろう!!」といったものだった。
私はディズニーが、時代の変化とともに浴びせられてきた全ての批判を、全面的に取り入れた世界を、
「これでどうだ!!!!!!」って、集大成として見せつけてきたかのように思えた。
ドレスを着ない、新たなプリンセス。
「王子様と幸せになった」だけではない、本能を追求して故郷までもを捨てる、自然体で勇敢なプリンセスの、「今」の姿。
フェミニズム的視点で抱き続けられていた疑問を、新たなプリンセスヴァネロペは、全て回収してみせたのだ。
これで文句はないでしょう?これがあなた達の求める、「正しいプリンセス」でしょう!?
これからのプリンセス
この映画を見終わった後、私は、これから先のプリンセス映画に思いを馳せていた。
これからはもう、フリフリのドレスを着て、王子様を待ちわびるプリンセスは登場しないのだろうか。
もしも登場したら、「男性に支配されている」と非難を受け、
「こんなプリンセスは幸せではない。あんなものを目指すな」と、子どもの目につかない場所に、しまいこまれてしまうのだろうか。
冒険をしたり、女性的ではなかったり、自立心を持ったプリンセスだけが歓迎を受け、それ以外のプリンセスは、「古い」とさげすまされるのだろうか。
私はそこで初めて、自分の胸につっかえていた思いがなんだったのか、はっきりと認識することができた。
「ディズニープリンセスは男性が求める女性をキャラクター化したもの」
「彼女達は男性に洗脳されていて、自分の意思がなく、決して幸せではない」
果たして、本当にそうだろうか。
少なくとも私の目からうつるプリンセス達は、「幸せだと思い込んでいる可哀想な女性達」ではなかった。
白雪姫は家事を「させられていた」というが、果たしてそうだろうか?
そもそも彼女は小人達が不在時、勝手に家に忍び込み、ベッドで眠っていたのが始まりではなかっただろうか。
彼女は魔法の鏡から身を守るため、小人達の家に身をひそめる。
彼女がすすんで家事をしたのは、彼女が「女性」だからでも、小人達が「男性」だからでもなく、
かくまってもらっている感謝の心から、起こした行動ではないのだろうか?
シンデレラは王子様と出会うまで社会と接点を持たされず、家事をさせられ続けていた。
確かにそうだ。だけどそれも、彼女が「女性だったから」ではないはずだ。
彼女をいじめていたのは男性ではなく、継母で、実際継母の実の娘達は家事などせず、いきいきと生きている。
彼女が家事をさせられていたのは「女性だから」ではなく「シンデレラ」だったからだ。
そして彼女達は確かに自分の意思で結婚を選び、事実、幸せになった。
確かにそれは古いのかもしれない。結婚しなければ幸せになれない構図こそが女性差別に値するのかもしれない。
だけど私は、そういう幸せも、幸せだと認められて良いと思う。
自分の好きな海で冒険を続ける幸せや、刺激的な空間で新たな生活を送ることを選ぶ幸せと同じように
素敵なドレスに身を包み、ちょっとの計算高さを磨きながら素敵な王子様との結婚を夢見ることも、幸せだとよんで良い。
白雪姫もシンデレラも、ベルだって。
彼女たちの感じる「幸せ」を、偽物だと決めつけて良い人など、彼女たち以外に、あってはならないと思う。
(※そもそもこの清楚で忠実な女性と醜くいじわるな女性。そこに現れて正義を貫く勇敢な男性という3種類のステレオタイプを登場させること自体が女性差別的視点を感じさせるという見解があるようだが、私はプリンセス達がそういった意味での「忠実」にはあてはまらないと考えているし、名前すら与えられず、ほとんど喋ることもなく、女性の美貌にとりつかれてガラスの靴を持って全国を必死に探し回るプリンス。という男性の描き方の方が、よっぽど男性をバカにしている描写に感じていた。女性は美しくなければならないという呪縛だという意見については、そもそも「ブス」への差別と「女性」への差別は別物だと考えているので、また)
私は、ピンク色が好きだ。
ドレスが好きだし、素敵な男性と結婚がしたい。
男に媚びることも人生を生きやすくするコツだと思っているし、
そのために慎ましさを手に入れることだって、悪くないと思う。
そんな私の好きなものや幸せを、「男性に洗脳された間違った価値観で、改めるべきだ」と強制されるなど、ごめんだ。
私は、モアナやヴァネロペが「本物のプリンセス」で、「本物の幸せ」を手に入れたと認められるように、
これから先登場するどのプリンセスだって、無条件で「プリンセス」だと受け入れたいし、受け入れられるべきだと思う。
もちろん、今までのプリンセスだってそうだ。
彼女たちの嗜好や幸せを偽物だとか時代遅れだと決めつけて、「正しいプリンセスではない」と判断したり、
「正しいプリンセスのストーリーに改変しろ」なんて求めることこそが、せっかく多様性が認められはじめたこの世界を狭くする考えなんじゃないかって、そう思う。
ヴァネロペは、今までのプリンセスとは違うが、ひとつだけディズニーが、今までを突き通したシーンがあった。
彼女はプリンセスとの出会いのあと、大切な水を見て、スポットライトの中、歌うのだ。
ヴァネロペ。
パーカーを着た小さなレーサー。
彼女はれっきとしたプリンセスで、私は彼女を、大好きになった。
そしてそれと同じくらい、白雪姫やシンデレラも大好きで、ディズニーのプリンセスシリーズに今後、
彼女たちのようなフリフリな衣装を着た控えめなプリンセスがまた登場して、
素敵な王子様と結婚して幸せになるストーリーのターンがやってくることも、少しだけ、期待している。
幸せも、好きなものも。他人に「嘘だ」って言われる権利なんて、きっと、ない。
yuzuka
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