よく、幻聴・幻覚に苦しめられた。
10〜20代前半のころ、「寝不足」か「寝過ぎ」のどちらか、極端な日々を生きていた。
寝ても覚めてもヘトヘトの無気力状態で、食器を洗ったり、ゴミを捨てたり、シャワーを浴びたりすることすら満足に出来なくなった。
この和室をはじめとして、リビングからキッチンまでぐっちゃぐちゃであった。
割れたガラスやプラスチックの破片が散らばっているから、靴を履いたままで生活する他ない。
365日24時間、情けなさとガラクタばかりが積み上がった。
いわゆる睡眠障害——いつだって脳も心も疲れきっており、夢と現実のはざまをふわふわと漂うごとく生きていた。
「昼まで寝腐ってどういうつもりだ。朝はむりやりでも起きろ。目が覚めないのはやる気、がんばる意思がないだけだ!」
実家暮らしだった頃、父親の激怒がアラームだった。
僕もろとも敷き布団がぐわっと持ち上げられ、転げ落とされ、冷たい床に衝突し、憂鬱なる一日が始まるのだ。
意識朦朧でリビングへ向かうと、母親がはぁーっと溜息をつき、絶望的な表情で睨んでくる。
そのときばかりは頭が冴え、嫌な感情でいっぱいになるのだった。
実家における僕の部屋。
扉を開けてすぐのところに厚手の遮光カーテンを設置し、寝る際はぴしゃりと閉め、真ん中をいくつもの安全ピンで留めていた。
僕の睡眠時間を、どこの誰にも邪魔されたくなかったからだ。
そこまでしても、不眠症状は引き続いた。
7万円の空気清浄機、8万円の敷き布団、それから寝る前のホットミルク、アロマオイル、アイマスク、クラシック音楽など、安眠効果を頼って導入してみたものの、効き目はむなしくもゼロだった。
僕の睡眠障害は、外界のすべてを超越していた。
「幸福の木」と呼ばれる観葉植物も取り入れたが、なぜか、すぐに枯れて朽ちてしまう。
24時に寝る準備をしても、意識が落ちるのは朝5時くらい、あるいは寝られないまま時間だけが過ぎていった。
どうにかこうにか眠りについても金縛りになり、体は硬直、目玉だけがぎょろぎょろと動いた。
悪夢と現実がぐるぐる交わることで、幻聴と幻覚がはじまる。
こうした症状に悩んだ過去のある人は理解してくれると思うが、さながら心霊現象のように、恐ろしい形相の少女が浮遊していたり、電話の甲高いコール音がいくつも鳴り続けていたりと、不快な現象がリアリティをもって目の前で展開するのだ。
しかも、汗びっしょりで目を覚まし、枕元の時計を見ると、寝入ってからほんの数十分しか経っていない……。
何時間も続く拷問のようであったというのに。
それだけじゃない。
金縛り⇒寝る⇒また金縛り⇒寝る⇒またまた金縛り、そんな負の連鎖が癖になってゆく。
そもそも金縛りが起きるのは、脳はすこぶる元気だけれど、体はガチガチに麻痺しているというレム睡眠——つまり浅い眠りのときである。
よって、金縛りは多発しやすいのだ。
これが重度になってくると、まるで幽体離脱してすいーすいーっと部屋中を飛び回り、もしくは床に穴が空いてぴゅーっと落ちてゆくような恐怖症状にさいなまれることすらある。
そして夜中に覚醒して、二度寝三度寝もむりになったときは、30円のコロッケとごま塩ご飯などをむさぼって、ただひたすら不健康な虚無の時間をぼ〜っと過ごした。
さらに不都合なことに、派遣社員としての出社1日目など、「絶対に寝てはならない」ときに限って、耐えがたい強烈な睡魔が襲いかかってくる。
十年前の札幌は時給641円が当たり前、そんな中でやっと見つけた時給900円——自分に適した環境とおぼしきコールセンター。
「これは絶対に続けたい!」
なのに、必須研修を30分も受ければ、講師を目の前にしてスヤスヤと夢の世界へ旅立ってしまうのだ。
自分なりに準備は欠かさなかった。
15時間ほど布団の中で過ごし、なにも食べず空腹状態を保ち、ミントガムまで持参して挑んだ。
カフェイン含有量の高い、玉露入りの緑茶だって、これでもかとグビグビ飲みまくった。
しかしその結果は、爆睡の有様である。
夜は寝るのにあれだけ苦労しているのに、どうして今はこんなにも眠くなるんだ……と自分の性質、遺伝子、人生丸ごとを恨みつづけた。
言わずもがな、正式採用のテストは赤点、派遣会社のスタッフから「社会人失格」の烙印を押され、部屋でふて寝するとまた金縛り……。
失敗体験、トラウマ記憶が増える一方だった。
それらはプレッシャーとなり、ますます睡眠障害を加速させた。
むしゃくしゃして部屋中のものを蹴り壊したり、「今度はちゃんと仕事続けられそう?」という何気ない母親の言葉にカチンときて、「うるせぇな。どうでもいいことで話し掛けるな!」と絶叫し、茶碗を床で叩き割るなど、さんざ八つ当たりした。
これは負の思い出、僕が眉カット用のはさみだったかを用いて、ギザギザに傷付けてしまった液晶モニターのひとつだ。
手の先端がまず震えだして、守られた家の中なのに過緊張状態になり、呼吸が荒ぶり、独特の浮遊感を伴った破壊衝動に駆られてゆくのである。
そんな僕を恐れてというか、儚んでいうとか、母親は不眠治療の病院を激烈にすすめてきた。
イヤイヤながらも診察を受けてみると、ナルコレプシー(発作的に寝落ちしてしまう病)の可能性が濃厚とのことだった。
そして睡眠剤が出されたのだが、薬物の副作用が気になって、その辺の空き地の草むらに投げ捨てて帰宅した。
そんなこんなで病院の薬は飲まなかったものの、精神安定剤代わりにサプリメントを買い漁った。
上記は比較的新しい写真だが、こんな具合に闇鍋ちゃんぽんよろしく、袋やバケツに詰め込んでいた。
春夏秋冬、社会不適合な僕は、昼夜問わず死んだ顔で、外を徘徊するのが習慣だった。
親のチクチクした小言を聞くのがつらく、自宅そのものがトラウマの源泉になっていたからだ。
現実逃避の親不孝ウォーキングである。
「働け。早く働け。なんで普通のことも出来ないの?」
「部屋にこもるな! 引きこもりになるぞ! 自室に飯を持っていくな! 決められた時間に食卓でみんなと食え! 守れないなら何も食うな!」
当時、厳格だった両親の口から、こんな言葉が針のように飛んでくる日々であった。
親からすればド正論なのだろうが、彼らは寝床に入って一分で寝られるタイプの人間だった。
正常と異常が入り交じるこんな世界は、核戦争でも起こして一度潰した方が、人間の業とやらを消去できて良いかもな、とムカムカしながら考えた。
この世の正義なんていうものは、悪意の別称でしかないなと思った。
気まずい空気が支配していた。
何を食べても味がしなくなった。
家族のくちゃくちゃという咀嚼音、かちゃかちゃという食器のこすれるノイズ音を聞くだけで気が狂いそうであった。
そして親を黙らせるため、適当な会社に面接へ行き、しこたま焦って働く予定を作るものの、今度は過眠症状が起きてしまう。
大地と体が接着したようになって、目覚まし時計が鳴り響こうと、親が叫び散らそうと起き上がれないのだ。
不眠が嘘のように、連続20時間ほどの過眠へと成り代わった。
寝腐りの果てに、何を思ったか汽車に乗って、こんな花畑へ行くなんてこともあった。
おそらく、僕の心が深刻だったから、無意識に、天国、安らぎ、逃げ場を求めたのだ。
こうして睡眠障害は、人の夢や現実を粉々にしてゆく。
僕はそれに抗うがため、自己啓発・安眠グッズ・サプリなどに、バカみたいに大金を支払ってきた訳だが、どれもこれも誤魔化しにしかならなかった。
そんな自分を救った唯一の方法は、「一生涯、社会不適合者として、開き直って生きてゆく」と心に決めることであった。
引きこもりでも無職でもニートでも、借金持ちでも貧乏でも職歴ゼロでも、憂鬱でも孤独でも空虚でも、知ったこっちゃない。
逸脱の道で生きる覚悟を持ったのだ。
家の壁には所狭しと、破天荒な芸人、横山やすし、島田紳助、やしきたかじん、それから海外のギャングや前科持ちのラッパーなどの写真を張り巡らせ、「なにをやらかしても神はお許しになる」とでも言わんばかりに、自分のすべてを肯定していった。
それからしばらしくて、気がついたときには、睡眠障害なんてものは跡形もなく消失していた。
結局のところ、どれだけ自分を愛せるか
そうした自信の有無が、人生を決めるのだと確信した。
たとえ根拠がなかろうと、勘違いだろうと、己に幻想を抱ける人間は、いい夢も見られるってことなのだ。
ピピピピピ
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